おらが茶屋の下付近に高倉山の石碑があるが、昔の高倉山の ピークは本当にこの付近にあったのだろうか。その経緯を調べて見た。 (出典は全て「山、海へ行く-須磨ベルトコンベアの記録-」神戸市開発局編から)
昭和33年から西部海面の埋め立てに多井畑(高倉山のー部)から土砂採取される。 昭和39年からベルトコンベアを使った本格的な採取(合計約4000万㎥)が始まった。 当初高倉山も完全に姿を消す可能性があったが、 造成される高倉台の住宅地が風の強い地域にならないよう、今の「おらが山」が残されたのだ。 |
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高倉台等の住宅造成計画図。 (この図に高倉山と鉄拐山の名前が出ている。) |
B1地点が高倉山で、切り取り計画にスッポリ 入っている。なおB3が鉄拐山だ。 |
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断面図に高倉山の切り取り予定が描かれている。 |
昭和34年当時で、まだ土砂採取が始まったばかり。 (海側から山側を見た写真) |
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昭和38年当時で、500万㎥土砂採取がかなり進んだ所だが、未だベルトコンベアは設置されていない。 (山側から海側を見た写真) |
昭和39年に、ベルトコンベアが設置された |

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ベルトコンベア完成後の写真と、計画図 |
昭和39年に、ベルトコンベアを使った工事の開始 |
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断面図は昭和43年8月段階の切り取り状況 |
中央上が、切り取り始められている高取山 (左の断面図と対比すると判り易い) |
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昭和44年1月 |
昭和44年7月 |
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「山、海へ行く-須磨ベルトコンベアの記録-」 神戸市開発局編では 高倉山の切り取りを中心に記載されていないので、 昔の高取山のピーク位置は現在地のどこかは 明確に書かれていない。
しかし、この文献の図や写真から、精度は荒いが 今の「おらが茶屋」付近である事は間違いないようだ。
色々同定してみると 「おらが茶屋」からもう少し下った 階段下の陸橋付近までの間のようだ。
須磨ベルトコンベアおよび土積桟橋は 神戸空港埋め立てにも使われ、 平成17年で操業停止する予定だ。
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昭和46年に土砂採取工事が終了。 昭和45年頃から団地造成工事が着手。 昭和48年から街のー部がオープンする。 |
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